昭和51年08月03日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
 この75節を只今読ませて頂いたら、誰でも一応分かるだろうと思いますね。心で殺すのが重い罪であるとか、又は実際にやい刃ならやい刃を持って殺すというのは、お上があってそれぞれのお仕置をあうけれども、心で殺すのは神が見て居るぞと、これはあの誰でも分かるだろうと思います。だから心の内を改めて人を心で傷つけたり、殺したりと言った様な事が、神様の機感にかなわぬということを、まぁ知らなければなりませんし、又そう改めていかなければなりません。
 私は何時も思う事ですけれども、神様がおかげを下さろうとしてのはたらき、神様が助けて下さろうとするはたらき、その元、助からせて頂く事の手立てとでも申しましょうか、その元になるものを、お粗末御無礼にする事は、私はもっと神様に対するお粗末御無礼だと思う。いうならばおかげを殺して仕舞う様なもの。神様の御恩恵を空しゅうして仕舞うようなもの。形に表れて居るもの、例えば食物なら食物、先日も或る方が、妊娠中絶のお届けがありました。
 だからお詫びをさせて頂くのですから、お詫びをさせて頂いてからのですから、お詫びをせずにおかすのではなくて、お詫びをさせて頂くのですから、許されて中絶をする。食物でもそうです。沢山の食物が例えばお粗末になっていく場合があります。ですからそれをいわば、食物を殺してしまうような事ですけれども、お詫びをしてそれを葬っていくというか捨てていくというかね、お詫びをするという手立てが、信心させて頂く者でなからんと分からん。
 そんなら物とか例えば中絶とかと言った様な事を申しましたが、目には見えないけれどもとこういわれる。目には見えないけれども、神様が一人一人の氏子におかげを下さろうとする働き、とりわけ信心をさせて頂いておかげを願い、おかげを頂きたいと思うて、神様も拝まして貰う、お取次を頂いておるにも拘らず、そのおかげの頂けれる元を絶って仕舞うたり、元を殺して仕舞うたりしだこだにしてしまったんでは、神様にこんな御無礼はな事はないです。
 皆さんそこ分かるですから、それで本当に私共がお詫びをさせて頂くというなら、日々どれ程に神様の御恩恵の働きとか、御恩恵のものをですお粗末御無礼にしておるか分からん。知らず知らずのお粗末御無礼が、心からお詫びがされなければならないということが分かりますですね。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと。だから真剣にです私共が気が付かないまんまにおかげの下さろうとする、そのおかげのその大元になるその働きをです、おかげの受けられない心で受けたり、それを抹殺して仕舞う様な事は。
 目には見えないけれども、それが神の機感に叶わぬ。そこで信心させて頂く者の上にはお気付けということがございます。お気付けを頂く神様が、おかげを下さろうとしておるその働きを、今日は皆さん75節を、人を殺すとか傷付けるとかということがです、形の上の事ならばで殺したり傷つけたりすれば、それぞれのお仕置のあうけれどもね、心で殺すのが重い罪じゃと、神が見て居るとこうおっしゃる。だから本当になるほどそうだろうと思います。
 そこで信心をさせて頂いて信心が少し分かり出したら、今日私が言うところが分からなければいけない。人ではありません。例えばそれはなら物とか、例えば妊娠中絶とかと言った様な事もその中に入って来る。けれども信心させて頂く者の上には、そこにこういう事情で、例えば沢山不注意のために食物作り過ぎて、ここまま置いとったら悪くなってしまう、と言うのでそれを葬った。本当にお粗末だ御無礼だと。妊娠中絶でもそうです。こういう事情の為に折角お恵を頂きました胎内の子供をね。
 闇から闇に葬るということは、大変御無礼でございますけれども、こういう訳でというてお詫びをしていくということ。だからこれを知らない者はそれをもう当然の事当り前の事の様にして、いわば葬ったり無駄にしていくということは、神様の御無礼お粗末になりますから、それが本当の人間の幸せの元にならない結果になります。以前聞かせて頂いた話の中に、甘木の初代の親先生が「大地をけがす、大地をみだりにけがすなよ」と、教祖様が教えておられるのにね、大地をけがす場合がある。
 極端なこというと、もう大小便でけがす様な琴すらある。信心のない者はそれを平気でやっておる。信心のある者は大地を汚しては御無礼になる事を知ってけがしておる。どっちが罪になるか、どう考えるかと言って、先生がみんなに聞かれた事があったそうです。殆んどの人がそれは知ってから汚すのですから、その知らんのなら神様も仕方が無いけれども。知ってから汚すのが悪いと思いますと言ってお答えしたそうです。
 皆さんどうでしょうか。「も知らんなら神様も大目にみて下さるけど知ってから汚すならやはりこれは罪になる。御無礼になる」と言うて、そのお答えしたら先生が仰ったそうです。「それは違う信心さして頂く者は、大地をけがさなければならんごたる時には、こういう訳でけがしてどうも相済みませんというて、お詫びをするから信心させて頂く者がけがすの方が罪にならん」と仰ったそうです。
 如何に知らず知らすであっても神がちゃんと見ておるとこう、これは積もり積もってお粗末御無礼ということになるんだと、いう意味のお話なさったということですが、今日はそこの辺のところを聞いて頂いている訳ですね。信心さして頂いておっても、やはりお粗末いわばいいですか、人を傷つけたり殺したりは勿論の事ですよ。だから私共がなら心で人を殺す様なね、そりゃしゅうねつな心を持ったり、心でその人をあやつったり、みすみすそれでは相手が不幸になる事を分かりながら。
 自分の心でいうなら心でいじめたりと言う様な事が、神の機感に叶う筈がありません。だからここに御理解の表面に出ておるところは、その通りでございますけれども、それを例えば物とかね、又は目にはいよいよ見えないところの、神様のおかげを下さろうとする働き、今日はそこんところを分かって頂きたい。神様がおかげを下さいとみんなが願うから、神様がおかげを下さろうとする働きが生まれて来る。
 その働きを粗末にしたり殺したりしだこだにするということは、いよいよもって神様に御無礼になるということを分かって頂きたい。そこでなら私共がです本当に一日の内には、どれほど神様のおはたらきを頂いて居るか分かりません。それをお粗末御無礼にしておる事があるやら分かりません。知らず知らずのお粗末御無礼を、何卒お許し下さいという、心からのお詫びがでけねばならない事が分かります。
 そこでそこをひとつでもうふた言でも本当に分からして頂いて、神様の働きを働きとして受けて行くというのが、先月太くなろう今月豊になろうと、いうひとつの眼目の芯になるところだと私は思うです。昨日もうこんな道理に合うた話があろうか、というてお話を頂きましたですね。大きなおかげを頂きたいというて心は消し粒のごたる心、豊かないうならば全てのものに恵まれたいと、言いながら心は浅はかな、心は貧しくてどうして豊かなおかげが受けられようか。
 豊かなおかげを頂きたいならば、先ずどうぞお取次を頂いて「豊かな心にならして下さい、太くならして下さい大きくならして下さい、美しゅうならして下さい」という願いを立てて、その精進をしなければならんというのが、昨日の御理解でしたよね。だからお取次を頂いてどうぞお願いします、なるほど漫画的なおかげが表れてきます。お取次を頂いてそこにおかげが、いうならば素晴らしいタイミングが生まれて来るという、御理解でしたね昨日の朝の御理解。
 だからそういうおかげはどこまでも、漫画的なおかげで血にも肉にもなるもんじゃない。おかげの受け物を受けると頂く。又その修行をするということが、信心の眼目でなからなきゃならん。おかげを頂くならば受け物を先ずは頂いて、本気で受け物作りに精進すると言う事だと言う風に頂いたでしょう。ですから豊かにならせて頂こうと願ったらです、それこそ豊かになれない様な事柄が起きてきた時に、はぁこれはいよいよ私の心を豊かにして下さろうとする事の、働きがこの様にして始まったんだと。
 それを受けていくと言う様な生き方こそが、神様の働きを粗末にせずして生かして行く事になるのです。そういう働きをね、あぁ腹が立つとかイライラするとかで受けたら、折角の神様の働きをですね、お粗末にすることになり殺す事になるから、折角の神様の働きを粗末にするから、それがいうなら神様の機感に叶わぬ罪にもなる、ということになる事をこれは信心をさせて頂く者は、ここんところに気付かにゃいかん。形に表れておるものやら人」を傷付けたり殺したりと、言った様な意味は分かったでしょう。
 だから今度は神様がおかげを下さろうとする働きを、抹殺したり殺したりする事はもっともっと御無礼な事だと、いうことを分からせて貰うてです、おかげを受けなきゃいけません。本気でそこに取り組まなければいけません。昨日の御理解「人間は万物の霊長だから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰っていない。道理に合う信心をせねばならん」と仰っとられる、だから私が皆さんにこう聞いて頂くでも、そうせにゃいかんよというのじゃない。
 皆さん一人一人がそうせねばならんと、腹をくくり決めなければいけんのです。だから何処に神様のおかげを下さろうとする働きがあるか分からんから、何時も心を神様に向けとかんと、あっという間にお粗末御無礼を作ってしまう事になるのです。昨日久留米の稲垣さんからお届けがあったんです。お母さんが鹿児島におられます。もう合楽にお参りする事を楽しみにしてまぁおられる。まぁ大変熱心なお母さんです。
 がそのう先日こちらへおまいりさして頂いて、頂いたお知らせやったけれども、まぁ帰りがちょっとけたたましかったもんですから、とうとうお届けせんなりに帰った。それであんたからお届けしといてくれというて、電話がかかってきた。というのはこのお広前にそれこそこんお丸坊主の、しかも紋付袴を付けた大きな人と小さい人が、ここへ神様を背にして座っとられる。前にはうやうやしゅう誰かが高膳で、この膳部をはこんでおるところであった。
 それはね「先ず自分の願いよりも、神様の願いが成就するということを願え、そういう信心になれよ」ということだよというて、お話を伝えさして頂いた事でした。皆さんお分かりになるでしょうか。大きな坊主頭は誰だと思う。小さい坊主頭、しかも紋付袴を付けたのは誰だと思う。私は大きなその坊主頭の紋付袴を付けておられる方を、金光様だと思います。小さい坊主の方は合楽の親先生だと思います。
 だから皆さんの例えば信心がですね、「合楽教会大発展の御神願御成就に相なりますように」と。言った様な願いをですされます。それを具体的にというと、親先生の願いが成就致しますようにということになるのです。金光様の願いが成就するようにということになるのです。それをもいっちょ言うと、天地の親神様の願いが成就するように、ということになるのです。
 そこで天地の親神様、金光様そして親先生、ならその親先生がです、はぁ今日はあすこに行って何か食べたい、あげなもんばいっちょ着てみたいね、あげなもんが欲しい、こげなもんが欲しいと言う様な、例えば願いをもっておられると致しましょうか、そんならそういう願いの先生の願いが、そんなら成就します様にということは、だからこれはおかしいことになりますよね。そこで合楽に通うて来る者は、私を知らなければならない、私を研究しなければならない。
 うちの親先生はもう、本当に我情我欲などの願いというものは持ってござらん。ただ人が助かる事さえ出来れば、いよいよ合楽示現活動に参画さして貰うて、合楽教会大発展の神願に燃えておられる方だと、皆さんがなら私をその様に信じて下さったらです、なら親先生の願いが成就致します様に、親先生の願いが先ずはままになります様にと、いうことになるのじゃないですか。私は大きな坊さんと、大きいその先生と小さい先生がです、高膳に向かってままになろうとしておられる。
 そういう働きをなら信者氏子、もうだから信者の信心の程度といものが、非常に高められた事になります。今日の御理解なんかそうです。神様がおかげを下さろうとする働きを粗末にしてはならない。その働きを抹殺してはならない。闇から闇に葬ってはならない。けれども人間生身を持っておることであるから、何時どういう場合にそういう働きを、無駄にする様な事をしておるか分からんから、心から詫びて詫びて詫び抜かなければならないということ。
 知って侵すなら却って悪かろうと、甘木の親先生にお答した人達がです、いいんやそれは知らずに汚す方がまぁだ悪いと仰った様なところをです、お道の信心させて頂く者は分からなきゃいけない。本当はね私の願いもう天地の親神様は、私の願いが叶えられる様に、もうこれは本気で思うておられる。金光様はねそれこそ私に手をつかんばかりにして、合楽示現活動の実が上がる事を願うておられる。
 何十年前椛目でね、三代金光様が私が御祈念をしておる本部の広前で、ところへ降りて見えて私の方向を座って向き直って手を付かれた。もうその事が勿体のうして勿体のうして、声を挙げておいおい泣いておりましたら、母がどうしたかどうしたか、そういうお夢を頂いて居るのでした。それこそ私共ぐらいな者に、金光様が手を付かぬばかりにして、人の難儀の言うなら人が助かる事の為の御用に、精進してくれよという願いが、合楽の上にある事をです、皆さんが知らなきゃいけません。
 それで皆さんの願いもさることながら、自分自身がいよいよ助かる事のために、先ずは願わにゃならんがその助かった心で、合楽示現活動に参画さして貰い。合楽教会大発展の神願が成就する様に、願わなければいけません。これは本当にですね、そういうものを何時も思うんですけれども、うかつに私がかぁこれはいいなぁはぁこれはいいなぁと私が言うたら、そのいいなぁと私が思うた途端に、神様がそれを私に下さろうとする働きが何時もあるです。それは皆さんが御承知の通りでしょうが。
 だから迂闊にあれがいいとかあれが欲しいとかと、もう言うたり思うたりしちゃならんなぁというて、何時もいうたり思うたりする事ですけれども。もう十四・五日も前だったでしょうか、テレビを高橋さんと二人で見よりました。そしたら壱岐対馬という対馬にね、もうそれこそ日本一の硯がでけとります。あすこにしかない石ででけた石をテレビで、あのうなんか噺家の人があのう司会をして、あのう日本各地の名人とか名物とか言った様なものを、作って見せたりするそのうあれがありましょうが。
 そん時その壱岐の何とかという名人を呼んで、硯を作っておるところをあのうテレビで見せておりました。そしてそれを何人かの人に安い値段でお分け致しますという。全国から沢山の希望者があるけれども、その次には何処の誰々さんにあの当選、あのくじ引きで当たりましたから、何処に発送しましたとこういう様な番組がありましょうが。あれを見せて頂いとりましたら、そのう対馬の硯のそれが実に優雅な実に素晴らしいんです。だから高橋さんと二人でええなぁありゃち。
 ええなぁという時は心に何か欲しいなと感じとる時ですよねえ。「あら五万円くらいならのう」と私が言いよりましたら、だんだんあのう発表があってからしよりましたら、一番安いとが十五万円じゃった。十五万もするならとても手が出らんと言うて言うとりましたが、今度の昨日の月次祭にあのうえらい大きな重たいものが、こりゃ羊羹にはちった重かごたるがち思うもうてから、もう重かこつ重かこつしたら開けて見たら、その壱岐の硯じゃった対馬の。ちょっと重たいこんな素晴らしい。
 これは昔小野の小町があのうこれを愛用したと言われとりますね。紫式部と言う様にです、例えばほんなら対馬に行った人が、どういう私がそげなこつ言うたつを知っとられる訳ないのですからね。何かお土産をお土産をと思いよったら、これに行き当たった訳です」。それで買うて来た訳です。そしたら昨日からはこの硯にふさわしいていうのが、こげな墨じゃいかんげな悪かつじゃ、したら墨のお供えが昨日又あった。これが一本五千円する。こまかつの一本が。
 という様にね、こう言う様な事実を見たり聞いたりしただけで、如何に神様が私の願いが成就する事を、願っとられるかということが分かるでしょうが。だから本当は皆さん合楽教会大発展の御神願が成就するようにと、いう為に本気で修行なさっていいのです。そしていわゆる神様が高膳でお膳部に、いわゆる神様がままになんなさるという、親先生がままになんなさるおかげを頂いた、その親先生がままになんなさるその中に、皆さんがままになるおかげが頂けるということをです。
 体験したりこれが、今合楽で言われておる一番最高の信心じゃないでしょうか。なかなか人の事は、一生懸命願われるもんじゃありません。それが公の事にでもなると、いよいよね祈りはおる、言葉には出しておるけれども、しんからということは出来ませんけれども、信心が出来た人というのは、そういう大きな願いを立てて、その大きな願いに、本気で打ち込むと言った様な生き方をこそ、私は真の信心ということになるのじゃないかと思います。
 今日は75節から人を殺すとか、あやめるとかということ。それを心で殺すのが重い罪じゃと言われる。だから今日はそのもうひとつ向こうにある、神様おかげを下さろうとする、その働きの元を断ってしまう様な、お粗末御無礼な事をするならばです、それはいよいよ神様のお粗末、初めの間はお気付けを下さって、けれども最後にはもうお気付けすら下さらなくなる様になると思います。お気付けを頂いたらはっとそこに気付かして貰うて次の信心、本当の信心に進んでいかなきゃならんということが分かりますですね。
   どうぞ。